ヘッドルームとは

作曲・編曲家 古賀 稔宏
「それいけ!アンパンマン」劇場版関連楽曲の作曲・編曲、Do As Infinity関連楽曲、アニメ楽曲、滝沢歌舞伎BGMなど、商業音楽の制作・演奏に携わる。
DAWの中では気持ちよく鳴っていたのに、書き出したファイルを聞いたらパリパリと歪んでいた。マスターのメーターを見返すと、ずっと天井に張り付いて赤が点きっぱなし。この「天井まで詰まって、逃げ場がない状態」を避けるための考え方がヘッドルームです。
ヘッドルームは、天井までの余裕のことです。天井とは何なのか、なぜマスターにわざわざ余裕を残すのか、なくなると何が起きるのか。この3つが分かると、メーターの赤に振り回されず、落ち着いてミックスを進められるようになります。
先に見ること
ヘッドルームは「天井(0dB)までの余裕」です。
- デジタルの音には0dBという天井があり、超えた分は切り取られて歪む
- マスターの余裕は、後段のマスタリングと書き出しのために取っておく
- 余裕がないと、書き出しで歪み、最後の仕上げで打つ手がなくなる
- 余裕はマスターを下げて作るのではなく、各トラック側で作る
頭の上の空間、という意味
言葉の由来を知ると、そのまま定義になります。
ヘッドルームは英語で head room、直訳すると「頭の上の空間」です。天井の低い部屋を想像してください。
頭と天井の間に十分なすき間があれば、多少ジャンプしても平気です。すき間がぎりぎりだと、ちょっと跳ねただけで頭をぶつけます。
音の世界もまったく同じで、天井にあたる上限と、今鳴っている音のいちばん大きい瞬間との間のすき間がヘッドルームです。
曲は一定の大きさで進むものではなく、サビで跳ね、キックの一撃で一瞬だけ飛び上がります。そのジャンプを受け止めるすき間が確保されているか、という話です。
ポイントは、ヘッドルームが「もったいない空白」ではないことです。初心者ほど、メーターの上に残った空間を見ると、そこまで音を詰めたくなります。
でもこの空間は、跳ねるための余裕としてわざと残している場所です。空白を埋めることと、良い音になることは別物だと、最初に切り分けておいてください。
天井=0dBの意味
「0なのに最大」が最初のつまずきポイントです。
DAWのメーターの一番上には0dBと書いてあります。0という数字のせいで「音がない状態」と誤解しがちですが、逆です。
デジタルの音の世界では、0dBは記録できるいちばん大きい音を表します。メーターの数字がマイナスで表示されるのは、この天井からあと何dB下にいるか、つまり天井からの距離を示しているからです。
では天井を超えるとどうなるか。デジタルには0dBより大きい音を表す方法がないので、超えた部分は記録されずに切り捨てられます。
波形で見ると、山の頭が水平にスパッと切られたような形になります。これがクリップで、耳にはパリッ、バリッという歪みとして聞こえます。
ここがアナログ機材との大きな違いです。テープや真空管の時代は、上限を少し超えても音がなだらかに潰れ、それが味として使われることさえありました。
デジタルの天井にそうした情けはありません。超えた瞬間、はっきり壊れます。
メーターの赤いランプは「天井に頭をぶつけた」という報告だと思ってください。
マスターに余裕を残す理由
ミックスの後に、まだ工程が残っているからです。
ヘッドルームの話が特にマスタートラックで語られるのには、理由が2つあります。
1つ目は、ミックスの後にマスタリングという仕上げの工程が控えているからです。マスタリングでは、曲全体の音圧や質感を整えるために、音を持ち上げたり削ったりします。
この作業には動ける空間が必要です。天井まで詰まったミックスを渡されたマスタリング側は、何かを足そうにも、その瞬間に天井へぶつかってしまい、打てる手がほとんどありません。
iZotope Ozone 12のようなマスタリングツールを自分で使う場合も同じで、余裕のあるミックスを渡すほど、仕上げの選択肢が増えます。荷物を運び込む前の部屋に、作業スペースを空けておくようなものです。
2つ目は、書き出しとその後の変換のためです。DAWの中で0dBぎりぎりを保っていても、WAVからMP3などへ圧縮変換される時や、再生機器側の処理で、瞬間的に天井を超えてしまうことがあります。
ぎりぎりセーフで作ったものは、環境が変わるとぎりぎりアウトになる。最初から余裕を持たせておけば、この種の事故は起きません。
余裕がないとどうなるか
音だけでなく、作業の自由も失われます。
ヘッドルームを使い切った状態で作業を続けると、まず書き出した音が歪みます。DAW内で確認した時は平気に聞こえても、ファイルにした途端に粗が出る、という形で現れがちです。
仕上げ間際での発覚なので、ダメージも大きくなります。
次に、ミックスが身動きできなくなります。天井まで詰まった状態では、コーラスを1本足す、サビでギターを重ねる、といった当たり前の作業のたびにマスターがあふれます。
何かを足すたびに全体を下げ直す羽目になり、作曲やアレンジの判断が「天井に当たらないか」という心配に邪魔され続けます。
そして、頑張って天井まで詰めても、実は報われないという事情もあります。今の音楽の聞かれ方の主流である配信サービスの多くは、曲ごとの音量差をならすために、再生時に音量を自動調整する仕組みを持っています。
天井まで詰め込んで稼いだ大きさは再生時に下げられ、詰め込みで失った音の伸びやかさだけが残ります。大きさの競争に参加するより、余裕の中で気持ちよく鳴っている方が、聞き手に届く音は良くなります。
余裕の作り方
マスターではなく、各トラック側から作ります。
マスターが天井に近い時、いちばんやりがちな対処がマスターフェーダーを下げることです。応急処置としては動きますが、根本は直っていません。
マスターに流れ込む前の各トラックが大きすぎるという事実はそのままで、合流点の水位だけ下げた状態だからです。
根本から作るなら、各トラックの側を見ます。ここで効いてくるのが、ミックスの現場で軸にしている「全部を大きくするのではなく、主役以外を少し下げる」という判断です。
トラックを目立たせたい時に片っ端からフェーダーを上げていくと、全体がせり上がって天井との距離が消えていきます。主役を決めて、それ以外を下げる方向で操作すれば、バランスを取る作業そのものがヘッドルームを守る作業になります。
確認のタイミングは、曲のいちばん大きい場面です。静かなAメロでメーターを見て安心しても意味がありません。
サビや落ちサビ明けなど、全トラックが鳴る場面を再生して、マスターが赤に触れず、天井までまだ空間が見えるか。これを作業の節目ごとに見る習慣にすると、終盤で慌てることがなくなります。
音圧を上げて迫力を出す作業は、ミックスの最後、あるいはマスタリングでやればいい仕事です。それまでの間、天井までの余裕は使わずに取っておく。
言い換えれば、ヘッドルームは仕上げの工程に渡すための貯金です。ヘッドルームが制作の流れのどこで効いてくるかは、制作工程マップで全体像と一緒に確認できます。
よくある疑問
ヘッドルームはどれくらい残せばいいですか
決まった数値を暗記するより、曲のいちばん大きい場面を再生してもマスターのメーターが赤に触れず、天井までまだ空間が見える状態を保つ、と覚えるほうが実用的です。マスタリングに渡す場合も、この状態なら後の工程が動けます。
控えめにミックスすると迫力がなくなりませんか
なりません。作業中の聞こえの大きさは、モニターやヘッドホンの音量つまみで上げれば済みます。曲の中の音量と、部屋で聞く音量は別のものです。迫力は天井までの詰め込みではなく、音同士のバランスと抜き差しから生まれます。
マスターにリミッターを挿せば解決しますか
メーターは赤くならなくなりますが、根本の解決にはなりません。あふれるほどの音をふたで押さえ込むと、押しつぶされた圧迫感が音に残ります。ふたに頼る前に、中身である各トラックの音量を下げるのが順番です。
0dBを一瞬でも超えたら失敗ですか
最終判断は耳でします。書き出した音源をDAWの外で再生して、歪みが聞こえなければ実害はありません。ただし、メーターが頻繁に赤へ触れる状態はいずれ破綻するサインなので、リミッターでふたをする前に各トラック側から見直してください。
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